例えば、最大公約数的一般社会や普通の会社のような経済効率を追求する組織では、
自分の常識が通常の一般常識としては通用するかもしれないけれど、
実のところそういう当たり前のような常識の影で、
全く違った考え方や感じ方をする人たちは密かに傷ついていくわけで、
そう思って振り返れば、
あんなこともこんなことも、
もっと違った言い方ややり方があったのにというようなことが、
僕の過去に累々と点在しているようなのです。
何でこんなことが!
と思わず他人にムカッとした時、
あぁ、もしかしたらあの人は気がつかないだけなのかもとか、
分らないだけかもとか、
そういう性質というだけなのかもとか、
或は自分の考えが間違っているのかもしれないとか、
とかとかとか、、、
当たり前のことだけど
人はみんな欠点だらけだから、
上手く出来ないこともたくさんあるのだから、
お互い様だから、
と思えると怒りもスッと消えていく。
あまりにも当たり前なのですが、、、。
上手く出来ない事は大なり小なり誰にでもあるけれど、
上手く出来ないことが社会に適応できない程度の場合は、
いわゆる発達障害というレッテルが付くことになる。
でも僕も自分でも呆れるくらいおっちょこちょいだし、物は良く忘れるし、
笑っちゃうくらい方向音痴だし、
もしかしたらこの部分は軽い発達障害と言えるんじゃないか、、、。
障害というと抵抗があるけど、
少なくとも他の人より発達が遅れている部分であることは確かな事です。
だとすれば、
人は誰でも多かれ少なかれ発達障害的なものを幾つも持ちつつ
何とか生きているのかもしれない。
発達障害なんて自分とは全く無関係と思っていたけど、
実はぜんぜんそんなことじゃなくて、
障害って言うからおかしなことになるのであって、
脳の発達がみんな人それぞれ違うのだということを理解すれば納得もいきます。
脳の発達は、これまで人間は誰でもが定型の曲線を描いて発達するもの
と考えられていたらしいのですが、
どうやら人それぞれ発達のスピードは異なり、
かつ能力のすべてがパラレルに成長していくわけでもないということが分かってきたらしいのです。
発達障害と言われている人たちも決して発達しないわけではなく、
発達の仕方が独特で定型発達の秩序から外れているだけらしいのです。
よく言う言い方で、
所詮人は誰でもみんな変わっているところがあるものだから
誰でもみんな変人だ、などと言ったりしますが、
それは少なからず変わっている部分の脳の発達が周りと少し違うという事なのかもしれません。
英語直訳では神経発達のずれ、とも言うらしいです。
ですから、人はみんな多少の神経発達のずれはあるのでしょうから、
つまり日本的な言い方では、
人は誰でも「発達障害」を持っている、
と言えるのかもしれないですね。
2019/10/30